はらぺこあおむしとDior:夜職の代名詞をハッキングする、ジョナサン・アンダーソンの「超・工芸」

街を埋め尽くした「俗世のトロフィー」

いつからラグジュアリーは、これほどまでに「分かりやすい記号」の過剰摂取に陥ったのだろうか。

かつてマリア・グラツィア・キウリ時代のディオールが生み出した「ブックトート」。港区女子等が持っている一つのステータスだったようにも思う。

しかし、気づけば洗練とは程遠い「俗世の記号」へと成り下がっていたような気もした。

キャンバス地のオブリーク柄は六本木や歌舞伎町の夜、あるいはSNSのフィードを開けば、パパ活や夜職のトロフィーとなってしまっていた。

だが、この記号は都会の一部地域の現象だとも思う。

一歩都心を離れた田舎へ足を運べば、ブックトートなどほぼ誰も持っていないし、実用性と価格が決定的に乖離したそのキャンバスバッグは、都市部の特定クラスタのためだけに機能する、きわめて限定的で局所的な「欲望のトロフィー」だったようにも思う。

文脈が完全に摩耗し、記号として消費され尽くしたこのバッグに、しかし、新たなクリエイティブ・ディレクター、ジョナサン・アンダーソンの就任によって、その運命は鮮やかに塗り替えられることになる。

「Book Tote」を本当の「書物」として再定義する

ジョナサン・アンダーソンが着任後に行った大きなハッキングは、ブックトートというプロダクト自体を「本物の文学や物語を携えるための、真のブックコレクション(Book Collection)」としてリデザインし、再定義したことだった。

ロエベ時代に『スタジオジブリ』とのコラボレーションを成功させ、工芸(クラフト)とポップカルチャーの融合において圧倒的な才覚を見せてきた彼である。「モノを入れるための巨大な高級バッグ」から、人が本を愛でるように「物語と美学を所有するためのキャンバス」へ。

その新しい哲学のもとで実現したのが、日本出版50周年という節目を迎えたエリック・カールの名作『はらぺこあおむし』とのコラボレーションである。

半世紀にわたって日本の子供たち(そしてかつて子供だった大人たち)の記憶に刻まれてきた物語。世界中で愛されるあの絵本の世界観を、プリントではなく、ディオールが誇る精緻で重厚なクチュール刺繍(クラフト)によってキャンバスの上に表現してみせたのだ。

かつて「パパ活や夜職の記号」として俗世に消費されていたバッグが、ジョナサンの手によって「50年の歴史を持つ絵本」という本物の文化・文学と職人の手仕事(クラフト)を身に纏う。それは、安っぽい俗世の文脈を鮮やかに脱臭し、ポップでキュートなコレクターズアイテムへと昇華させた瞬間であった。

「はらぺこあおむし」という美しき毒

だが、この「本物の書物」としての再定義には、ジョナサン・アンダーソンらしい美しくも毒のあるアイロニー(風刺)が潜んでいる。

世界中で愛される『はらぺこあおむし』のストーリーを、我々は誰もが知っている。生まれたばかりの小さなあおむしが、りんご、すもも、さらにはケーキやソーセージといったあらゆる食べ物を貪欲に食べ散らかし、お腹を壊し、やがて綺麗なサナギを経て美しい蝶へと変身する物語だ。

あらゆる欲望を貪り食うあおむしの姿は、現代の消費資本主義そのものではないか。

新しいコレクションを貪り、SNSのフィードで欲望を拡大させ、ハイブランドのバッグを買い漁る消費者たち。

消費され尽くしたブックトートという「巨大な欲望の胃袋」の上に、あえて「あらゆるものを食べ散らかすあおむし」の刺繍を載せるという行為。それは、ノスタルジックで愛らしい絵本へのオマージュであると同時に、ラグジュアリーという名の欲望を貪る人々に対し、「あなた方の姿は、まさにこのあおむしと同じですよ」と微笑みながら突きつけられた、極めて知的な鏡なのだ。

3Mスプレーの臭いと、生々しい防衛

どれほど「本物の書物」としての美学や風刺が込められていようと、このバッグを手に入れた所有者が日常で直面するのは、極めて物理的な「物質としての維持」である。

キャンバス地に施された繊細な刺繍糸、そして明るいベースカラー。日本の日常に持ち出せば、雨や泥、手脂、排気ガスの汚れといった日常のノイズが容赦なく襲いかかる。

所有者は、その「50年の歴史と風刺が込められたアートピース」を守るために、3Mの防水スプレーを噴射する。

化学薬品のツンとした不快な臭いが部屋に充満する中、缶を振り、むらにならないように均一にスプレーの粒子をキャンバスへと吹き付ける。

「あおむしの無邪気な刺繍」を、ケミカルな防水膜でコーティングして物理的な汚れから防衛するこの行為。

欲望の虚構を暴くアートピースを手に入れたはずの人間が、結局はそれを「汚したくない高価な工業製品」として後生大事にメンテナンスしているという生々しいリアリティ。ここにもまた、批評と所有の逃れられない滑稽な摩擦(ノイズ)が存在している。

欲望の果てに、我々は蝶になれるのか

『はらぺこあおむし』の物語の結末で、あおむしは緑の葉っぱを食べてお腹の調子を整え、サナギにこもった後に「美しい蝶」となって空へ羽ばたいていく。

では、都市の喧騒の中で「ラグジュアリーという名の食べ物」を貪り食う現代の我々は、この買い物の果てに美しい蝶になれるのだろうか?

それとも、お腹を壊したまま、田舎には届かない虚構のアイコンを追い求め、永久に新しいバッグ(食べ物)を探してフィードを彷徨い続けるのだろうか。

ジョナサン・アンダーソンはきっと、アトリエの奥でこの光景を誰よりも面白がっているに違いない。

自分が仕掛けた「本物の書物」という大義名分のもと、欲望にまみれた富裕層や流行追いたちが、自らのメタファーであるあおむしの刺繍に大金を払い、3Mのスプレーで必死に防衛しながらありがたがって担いでいる。その滑稽な戯画を、彼は心底ニヤニヤしながら眺めているかもしれない。

ディオールのブックトートに描かれたあおむしは、何も言わずにただ佇んでいる。

自分が担がれているバッグの俗世的な歴史も、それを買い求める人間の欲望も、すべてを知り尽くしたかのような無邪気な顔で。

そして、すべてを理解した上で、このバッグを確信犯的に持ってみるのはいかがですか?

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