「不在の父」と「母への回帰」:アルモドバルが描く、境界線を超えて祝福される私たちのルーツ

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導入(プロローグ)

スペインの巨匠ペドロ・アルモドバル。彼の映画には、極彩色のインテリア、セクシャリティの境界線を軽やかに飛び越える人々、そして情熱的な愛憎劇という、独自の「過剰なシステム(様式美)」が常に渦巻いている。、彼は世間のモラルやスキャンダルをハックし、映画というポップな芸術へと昇華させてきた。

しかし、彼が遺した数々の傑作の中で、どう切り離そうとしても私自身の核心(センター)に居座り続ける作品がある。1999年の最高傑作『オール・アバウト・マイ・マザー(Todo sobre mi madre)』だ。

なぜ、私が、この「女たちの連帯」を描いた映画にこれほどまで強烈に惹かれるのか。その答えは、映画批評の文脈にはない。私自身、つまり「生まれてこの方、父親の写真も話も聞いたことがないまま育った」という、極めてプライベートなルーツにあるのだろうとは思う。

なぜアルモドバルの世界には「まともな父親」がいないのか?

映画の幕開け、最愛の息子エステバンを交通事故で亡くした母マヌエラは、息子のノートに書かれた遺稿を目にする。そこには、「母のすべて(オール・アバウト・マイ・マザー)」を知っているけれど、自分の人生から半分抜け落ちている「父親」という存在を、写真でもいいから一目見たい、その半分を埋めたいという、少年の切実な願いが綴られていた。マヌエラは、息子の魂を救うために、かつて自分が逃げ出した街バルセロナへと向かい、いまやトランスジェンダーの女性(ローラ)となった「かつての父親」を探す旅に出る。

ここで誰もがひとつの疑問を抱くだろう。オープンにゲイであることを公表しているアルモドバルは、なぜこれほどまでに「まともな父親像」を映画から徹底的に排除し、不在にし続けるのか?

そこには彼の個人的なルーツと、スペインの歴史という2つの抑圧(システム)への反発がある。
アルモドバルの実の父親は、昔気質の寡黙な労働者であり、幼少期のアルモドバルが持つ繊細さや「男らしさからはみ出た部分」を理解できない異星人のような存在だった。そのため、彼は自然と母親や近所の女性たちが集まる「女たちのコミュニティ」の中で、生きる知恵とクリエイティビティを吸い上げて育った。

さらに、彼が青年期に直面したスペインは、独裁者フランコ将軍による右派の権威主義社会だった。そこでは「家父長制(父親が絶対的な権力で家族を支配するシステム)」が美徳とされていた。ゲイである彼にとって、社会が押し付ける「まともな父親であれ」という規範は、自分を縛り付ける檻でしかなかったのだ。

だからこそ、フランコ体制が崩壊した後に映画を撮り始めたアルモドバルにとって、映画の中で父親という役割を徹底的に機能不全にし、不在にすることは、国家の抑圧的な男社会(家父長制)を内側から完全に解体するための、映画的な復讐だった。彼は「まともな父親なんていなくていい」とシステムを叩き壊したのだ。

バルセロナの夜景と、欠点だらけで「無敵な女たち」

マヌエラが息子の死を背負い、かつての夫(父親)を探すためにトンネルを抜けてバルセロナへとたどり着いた瞬間、スクリーンに広がる夜景の写し方は息をのむほど美しい。車窓の向こうで怪しく、しかし温かくきらめく街の光。そして暗闇の中に浮かび上がるガウディの「サグラダ・ファミリア」のシルエット。アルモドバルがあの夜の景色を圧倒的なエモさで写し出したのは、そこが「どんな過去や傷、不条理を抱えた不完全な人間をも等しく拒まない、境界線のない聖域(セーフスペース)」だからである。

そして、この聖域に登場する女性たちは、決して完璧な聖女ではない。
誰もが嘘、ヒステリー、お騒がせな秘密、あるいは病気といった、人間としての生々しい「欠点」や「バグ」を抱えて生きている。しかし、アルモドバルは彼女たちの欠点を決して断罪しない。むしろ、その不完全さを受け入れ、互いの傷を笑い飛ばしながら連帯していく姿を、途方もなくタフで「強い存在」として描き切る。社会が作った「まともさ」からはみ出してしまった女たちが、その欠点すらも自らの魅力(クチュール)に変えて力強く歩く姿は、観る者すべての魂を全肯定してくれる。

社会が引いた「正しい家族」の境界線なんて、生きていく上ではどうでもいい。
父親の写真がなくても、話を聞いたことがなくても、私たちは「母という圧倒的なルーツ」の愛によって、今ここに存在し、生かされている。アルモドバルは、既存の家族システムを一度完全にバラバラに解体した果てに、「私たちは、ただ生まれてきたというその事実だけで、誰からも完璧に祝福されている」という、究極の救い(ルーツへの回帰)を導き出したかのようだ。

円熟期の俯瞰:若き日の「反逆」から、老境の「抱擁」へ

そして25年が経ち、70代後半を迎えた「最近のアルモドバル」は、この母の世界からさらなる一歩を踏み出し、人生のすべてを静かに見下ろす圧倒的な「俯瞰(ふかん)」の境地に達しているようだ。

かつての彼は、社会の抑圧的な古いシステム(家父長制や宗教)に対して、映画を武器に牙を剥き、ぶち壊すことで自らを証明していた。だからこそ『オール・アバウト・マイ・マザー』では父親を徹底的に不在にする必要があったのだ。だが、2024年に初の全編英語劇としてヴェネチア国際映画祭の金獅子賞を制した『ザ・ルーム・ネクスト・ドア(The Room Next Door)』で彼が描いたのは、血縁の断絶すらも静かに受け入れ、死という生命のゼロ地点(究極のルーツ)へ向かう他者との完璧な魂の連帯だった。若い頃の衝動的なハックは、人生のすべてを見通した老練さへと昇華されたのである。

そして、その円熟の先にあるのが、2026年のカンヌ国際映画祭を震撼させた最新長編『Bitter Christmas(アマルガ・ナビダッド)』だ。

かつて、社会の家父長制(父親)を否定し、不在にすることで不完全な女たちの連帯を祝福したアルモドバル。しかし彼は、老境に至った最新作において、ついにカメラのレンズを「自分自身」へと向けた。それは、映画という疑似家族の「父親」であり、その世界を支配する「創造主」としての、己のグロテスクなエゴや内面を容赦なく晒しあげる、きわめて勇敢でアバンギャルドなオートフィクション(自伝的フィクション)なのだという。

この映画は、まだ日本では公開されていないが、父親の不在のその旅の果てに、アルモドバルが『物語を作る自分自身という創造主(父親)』のグロテスクな内面を晒しあげた姿が一体どういうものなのか、いろんな意味で興味を持って見てみたいと思う。

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