「意味不明」の奥に潜む純真:ピーター・グリーナウェイが数式と映画のフレームに隠した「究極のルーツ」

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導入(プロローグ)

映画監督であり、画家でもあるピーター・グリーナウェイ(Peter Greenaway)の映画は、しばしば「難解」「意味不明」「悪趣味」と突き放されがちです。

あと、やたらインタビュー等でよく喋るあの調子も難解さを感じさせる要因かも知れません。美術史、幾何学、死生観、映画の終わりといった壮大なテーマが、超高速の連想ゲームで次々とドッキングしながら展開します。

初めて見たのはZOOと建築家の腹だったか。


左右対称(シンメトリー)の異様なまでに美しい画面、執拗にインサートされる数字や記号、そしてマイケル・ナイマンによる非情なまでに反復するミニマル・ミュージック。ハリウッド的な「わかりやすい物語や感情移入」という映画界の巨大なシステムをあざ笑うかのように、彼は独自の冷徹な数式でスクリーンを支配してきました。

しかし、彼の映画をただの「インテリの冷たい知能ゲーム」だと思ったら大間違いと思うのです。

私たちは彼の最高にアバンギャルドな難解作――『ZOO(A Zed & Two Noughts)』『プロスペローの本』、そして『枕草子』を凝視するとき、ある驚くべき矛盾に気づかされる。彼は、冷徹な秩序(装飾)でガチガチに武装したシステムのその最奥に、人間としてのあまりにもピュアで、壊れそうなほど純粋な動機(愛、価値観、幼少期の快感、ルーツへの回帰)を隠している気がします。

『プロスペローの本』:冷徹な「復讐」の先にあるもの

シェイクスピアの『テンペスト』をベースに、世界を統べる24冊の「知のシステム」を圧倒的なバロック美で描いた『プロスペローの本』。主人公プロスペローは、天候や重力、他者の意識までをも本に書かれた知性でハックし、自分を裏切った者たちへ冷徹な「復讐」を仕掛けていきます。

裸祭りと言われることも多いし、シェイクスピアの素地のない東洋人が見たらさっぱりわからないという意見も多いのでしょう。確かに強烈なグロテスクな画面が埋め尽くします。あと、ワダエミの豪華絢爛な衣装も圧倒的です。まあ、ぶっちゃけ何かとくどいです。

だが、この脳の処理スピードを超える超高密度な知能犯的映画の行き着く先は何か。
プロスペローがその強大な魔術(システム)のすべてを尽くして、最終的にやりたかったこと。それは「娘(ミランダ)の幸せな結婚と未来を守る」という一点に尽きるようなきがするのです。どれほど巨大な知のシステムを再構築しようとも、そのコアにあるのは「ただのいいお父さん」という、普遍的で温かい家族愛なのではないか、最後、本も何もかも全て捨てて、娘への幸せを願うに全集中していく過程が描かれます。結局のところ、人としてのシンプルな愛に帰結しているようなきがするのです。

『コックと泥棒、その妻と愛人』:無茶苦茶な世界を生き抜く、ブレない価値観

泥棒という横暴な権力者が支配する高級レストランを舞台に、最後には「人間の肉を喰らう」という究極のタブーへ至る、無茶苦茶で不条理な名作『コックと泥棒、その妻と愛人』。

ジャン=ポール・ゴルチエが手がけた、部屋を移動するごとに色が変わる美しく過激な衣装が、衣服による社会的な記号を剥ぎ取っていきます。ヘレン・ミレンが美しく非常に衣装もお似合いです。

暴力や暴言だらけで本屋のマイケルとのひとときが見ているこちら側にも癒しになっている気がします。

「食」という、生命力と死穢がまみれる聖餐(せいさん)

私たちが生きるために物を食べるという行為は、生きるための「生命力の源」であると同時に、他の生命を殺し、噛み砕き、内臓でドロドロに消化して排泄するという、最も「死穢(不浄)」にまみれた行為でもある。グリーナウェイはこの映画のレストランという空間を使って、人間の持つ「食と性(生)」の美しさを、そのまま「腐敗と人肉食(死)」のグロテスクさへと直結させてみせている気がします。

だからこそ、劇中でコックが語るこの混沌とした悪夢の中で、ラストの方でコックが静かに語る

「黒っぽい食材には高い値段をつけますね。ぶどうにオリーブ、黒スグリ。人は死を思い起こさせるものを好みます。黒い食べ物を食べることによって人は死を克服した気分になる。

黒い食べ物の中でもキャビアと黒トリュフが最も高価です。

死と誕生。

終わりと始まり。

最も高価な食材が黒というのも頷ける話だと思いませんか?という独自の価値観。が実に印象的です。

彼は、食が持つ「死穢」の不浄さを最初からすべて受け入れた上で、それを極上のフレンチ(クチュール)というシステムへとロジカルに再構築しています。

世界がどれほど無茶苦茶で俗悪な暴力に支配されようとも、食の持つ生命力と死の美学だけは汚させない。

その凄まじい反転のドラマが、あの「人肉を喰らう」というラストの、最も穢れに満ちた、しかし最も純粋な復讐の聖餐へと行き着くのではないでしょうか?

『枕草子』:アートの原点にある、子供のころの「快感」

清少納言の『枕草子』をモチーフに、生身の肉体に文字を書き殴り、それを「生きた本」として出版していく『枕草子(The Pillow Book)』。一見、エロティックで意味不明な前衛芸術の極致に見えるこの作品。

ブライアンイーノの音楽担当なのも、返還前の香港の独特な空気感も、日本を誤解釈しているあのインチキジャパニーズな狂ってる感じも90年代の匂いなんでしょうか?結構好きです。

だが、ヒロインのナギコがこの行為を執拗に追い求める原点は、あまりにもピュアだとおもうのです。それは「子供のころ、誕生日に父親から顔や首筋に筆で文字を書いてもらった、あの筆先のくすぐったい、圧倒的に幸福な快感」への回帰ではないか。どんなに高尚で難解なアートに見えても、すべての始まりは「幼少期のピュアな初期衝動や快感」というルーツにすぎないことを、この映画は暴いているように思うのです。

『ZOO』:システムのハックが辿り着く「究極のルーツへの回帰」

妻を事故で亡くした双子の動物学者が、動物や果物が「腐敗していく過程」をタイムラプス(低速度撮影)で執拗に記録し続ける『ZOO(A Zed & Two Noughts)』。彼らは、人間が抗えない「死と時間」という絶対的な自然のシステムを、カメラのフレームとマイケル・ナイマンの反復する音の中に閉じ込め、カウントすることで支配しようと試みます。

この映画の持つ「意味不明な狂気」を象徴する1つが、ヒロインのアルバをオランダの巨匠フェルメールの絵画そっくりにドレスアップ(コスプレ)させる、あの奇妙な展開です。劇中に登場する、アルバの脚を切断しようとする医者の名は「ヴァン・メーヘレン」。実在した世界一有名なフェルメールの贋作作家と同じ名前です。

どうやら、双子の兄弟や偽造師が仕掛けた正体は、放っておけば死穢に向かってグズグズに腐敗していく生身の肉体を、フェルメールの「永遠に時間が静止した光の絵画」という秩序の中に閉じ込めることで、死を強制的にストップさせるための狂気的な防腐処理(実験)をしたということのようなのです。

そしてその代償として、アルバは完璧なフェルメールの構図(システム)に自分を適合させるために、邪魔な両脚を「切断」することを求められる。強大すぎる美の規範(システム)に合わせるために、人間の肉体の側を不自然に変形・切断させてしまうというアートと称したむちゃくちゃな暴力です。

映画のラスト、双子が自分たち自身の肉体の腐敗をタイムラプスに記録させようとするあの瞬間。あれは彼らにとっては狂気ではない。自分を形作っていた物質をすべて大自然へと還し、「生命が生まれる前のゼロ地点(究極のルーツ)」へと戻ろうとする、最も純粋な回帰の儀式なのでしょう。ただまあ、客観的に観ればやっぱり狂気だし、これ以上なく「珍妙」な景色でもありますね。

カタツムリや虫の群れにまみれながら、全裸でカメラの前に横たわる双子の姿。その大真面目ゆえのシュールな珍妙さ(ブラックユーモア)こそが、グリーナウェイがシステムの最奥に隠した、人間というバグの愛らしさそのものなのかもしれません。綺麗事を描かないからこそのピュアさを強く感じます。

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